【僕と祖父を繋ぐナス】四日市で生まれ育った少年が野菜農家になるまで

みなさん、おはようございます。

三重県四日市市上海老町でナス農家をしている堀田健一ことナスケンです。

早いもので2018年も4ヶ月がたとうとしています。本当に時間がたつのが早い。昨夜ブログ書こう!って意気込んで子供を寝かしつけてのちのち起きるつもりが起きたら朝、というまぁよくある寝落ちってやつで只今ビニールハウスの中で書いとります。ただ雨の音しか聞こえません。超絶ウルサイです。

前回ブログはコチラから

とにかくナメてた野菜栽培

前回のブログではじいちゃんから畑を貸してもらってそこで野菜を栽培するも肥料をどれだけ準備したらいいのか、タネはどのくらいの深さでまくのがいいのか、水はどのくらいの頻度であげたらいいのか、その他諸々。全く分からず、理解もせず(小中高と理科、数学大嫌いだった本領発揮)「やっちゃえ、俺!」って感じでやったため、まともに収穫出来ず、元気に育ったのは雑草のみ!畑でただただ呆然と立ち尽くしてました。こんな感じ↓けして立ちションしてるわけではありませんよ。お食事中の方、すみません。お気になさらず読み進めて下さいね。↓

↑上の写真、手前は寒さにあたって黄色くなるも元気な雑草たち。中央奥に突っ立っているのが僕。その周辺に黄色くなっているのが野菜たち(大根やカブなど)。完全なる肥料不足。そして僕が着ている上着も黄色。見事なまでにシンクロしていますね。はい。

じいちゃんのおかげ

野球を、高校を、今まで思ったようにならなくなるとすぐに投げ出してきました。それこそ小学生2年生だったかな、父親とキャッチボールしていてうまく捕れなかっただけで泣いて怒って公園から自宅まで帰る、という離れ技も。今回の野菜栽培ももちろんだけどうまくいかない。「あぁ、もうやめよう」との思いが頭の中を支配し始める…その時!ひなたぼっこ(年寄り風日焼け)していたじいちゃんが一言。

「おう、健一(本名)、おもしょいやろ」

は?じいちゃん、何言っとるんや。失敗したぞ。全然おもしょくないやろ。やるからには収穫したいやろ、と。今回の野菜栽培では収穫して食べる事が目標としていたので自分では失敗。大失敗。

そんな中の上のじいちゃん一言。まじかよ。とうとうボケたと思いました。その時じいちゃん80歳くらいやったかな。そしてさらに一言。

「そんなもんお前、失敗する、せんなんて別にどうでもええんや。おじいちゃんお前がそやって興味持ってくれただけで嬉しいんや。またタネまいたらええんや」と。

こう言われました。ここだけはしっかり覚えている。声も、表情も。やっぱり挑戦した以上は収穫という結果が欲しい!そやって思っていた僕はいつもなら確実に投げ出している。だけどその時はなぜかじいちゃんに認められたような気分になって嫌にならなかった。

じいちゃんの名前は清治(せいじ)

堀田 清治(ほった せいじ)

身長160㎝、体重50㌔ほど、酒飲み(昔だけど、一升瓶抱えながら仕事していたらしい)、昭和2年1月25日生まれ、89歳大往生。かけっこ早い。三男坊だが上2人の兄が会社勤めのため嫌々農業をすることになったらしい(←本人言ってた)

そんなじいちゃんに育ててもらった僕↓愛車は乳母車。

↑何歳か忘れました。が、幼少期は女の子に囲まれる事が多く、普段から女の子と遊んでいたようです。今思えばこの頃がモテ期ピークなのかもしれません。コンチクショーw。そして記憶を辿れば両親が共働きというのもあって普段から面倒はじいちゃんばあちゃんに見てもらっていました。2歳年下の妹と僕が軽トラの助手席に乗って(今思えばアカンやつや)保育園へ送り迎えも。じいちゃんには軽トラに、ばあちゃんには乳母車によく乗せてもらってました。↓

↑規格外の乳児ですね(笑)いや、これは最近作業場の片付けをしていて昔乗っていたであろう乳母車が出てきたので久し振りに乗ってみました、はい。けっこう頑丈に出来ていて僕の体重(90㌔)でも大丈夫そうでした。

大沢ナス(おおざわなす)とじいちゃん

僕の育ったところは四日市市上海老町字大沢(かみえびちょうあざおおざわ)。表記は「おお’さ’わ」だけど地元のみなさんはなぜか「おお’ざ’わ」と言う。じいちゃんは兼業農家で普段の仕事は土木の仕事をしていました。そのかたわら田んぼでお米を作っていました。田んぼは場所によってたくさん収穫出来るところと収穫があまり出来ないところがあって、そういう田んぼにお米じゃない作物を作るようになりそれがナスだったのです。じいちゃんが40歳代の頃だったかな。というのもナスを作る上で水やりが必須。そしてお米と同じ時期に栽培出来て暑さに強い野菜となるとこの地域で作れる野菜はナスしかなかったみたい。そんなこんなでじいちゃん含め大沢地区の方中心に出荷組合を結成して栽培がスタート。詳しい生産者の数は分からないんですが(聞き忘れた)、名古屋の市場に出荷して市場関係者からの評価も高く「大沢ナス」として認知されていったとのこと。

偶然見つかった出荷をする際に使っていた箱。見つけた地元の方がわざわざ僕に知らせてくれました。なんだか忘れられない彼女にふいに出会えた気分でした。

じいちゃんは出荷組合の栽培技術指導をしていた事もあってか積極的に自らもある他のナスの産地に足を運び情報収集していたと。奈良や大阪は富田林。富田林はよく会話に出てきたから覚えてます。コレだ!と思った事はトコトン挑戦する性格で地域の方からの人望も厚く、農業始めた時も「清治の孫」ってだけで色々教えてもらえたり、とにかく凄いなじいちゃん!と気付き始めたのもこの頃。

続かなかった大沢ナス

最初は評価も高く、順調だったもののじいちゃんが50歳になる手前にはかなり生産者が減っていました。それは真夏の収穫の作業が体力的にも精神的にもキツイのが理由。朝、太陽が昇る前から収穫を始めても終わるのがお昼前。昼から箱詰めなどの作業。丸1日作業の中、ナス以外にお米の管理もしないといけない。そんなことしている間にもナスは大きくなる。収穫せねば、と思いながらも収穫する人がいない。そんな生活続けてたら人の方が先に滅入っちゃいますよね。そんな理由から辞める人が増えて、とうとう出荷組合も解散。そもそものナス栽培すらしなくなっていました。こんな話を幼少期から聞いていて最初は「ふーん」って感じでしたが、今ブログ書きながら思う事はその当時じいちゃんはどう思っていたのかな?って。そこ聞けないのが心残り…。

「じいちゃん、俺、ナス作るよ!」

失敗しまくりで投げ出しそうになるところをじいちゃんから思いもよらぬ言葉をかけられてじいちゃんっ子な僕はなぜか急にヤル気を出す訳で。今考えても別にやれって言われた訳でもなく、ただ「じいちゃんが嬉しそうだったか」が理由なのかな。この頃勤めていた会社がco-op宅配で、組合員さんと話していると食材にこだわりを持たれた方が多くて、だったら自分が作っちゃえ!って思ったのもキッカケ1つだけど。ちょうど2人目の子供の出産を控えている時に僕が嫁さんに「農業するから会社辞める」と言い出したから案外怒られて反対されると思いきや妻は現実思考で「それで食っていけるの?」と。彼女の凄いところは反対は反対なんだけど、頭ごなしに否定しないで「やっていけるのか」っていつも僕に問いかけてきれるところ。出産を控えて神経質な時にこんな質問してごめんなさい。いつもありがとう。面と向かって言うの恥ずかしいからブログで言います(笑)←ちゃん言えよな。そんな状態で貯金があるわけでもなく、唐突に農家としてスタート、いやフライングし始めるのです。

大沢ナスの復活か!?

就農するにあたり、何を栽培するのか決めなければいけません。その当時は「有機栽培」「多品目栽培」などが農業界のトレンドになっていて、僕も当初はそこを目指そうか…いやいや、ナスやろ!ここは。

僕の地域ではイチゴやトマトで就農する人がたくさんいて、それらはもう飽和状態になっていました。そんなことも⁈あってかますますナスに対して特別感を感じてたのでナスで無事(笑)就農しました。

↑この写真は就農1年目のナス栽培の写真。

じいちゃんからナスの話は色々聞いていたけど肝心の栽培をどういう風にするか、全く聞いていなかったため(バカヤロウ、そこ聞けよ、ちゃんと)、県の農業普及員さんに指導をして頂いたり、愛知県愛西市のナス農家さんの元へ週1で研修に(1年半ほど行きました)お邪魔したりしてその研修を並行しながら僕自身も栽培しながら勉強の日々でした。お金は無かったけど(今も無いけど)、ご先祖様が、じいちゃんが残してくれた土地がある、そしてその土地には井戸がある。これはきっと僕に農業をさせてくれるためにご先祖様が、じいちゃんが残してくれたんだ!と都合のいいように解釈して栽培スタート。

この頃の考えは「大沢ナスを復活させる!」と考えてじいちゃんが作ってたナスの品種を栽培してとにかくじいちゃんに追いつけって感じでやってましたが、何か楽しくない。じいちゃんはじいちゃんであって僕は僕。過去に学ぶ事も大切だけど、僕は僕の人生を謳歌出来る自由がある。なによりじいちゃんは「好きにやったらええ」と言ってる。じいちゃんは「好きこそものの上手なれ」と考えているから。じいちゃんとの会話を思い出すとそう感じる。何より否定しない。全て受け止めてくれる。そして背中を押してくれる。

だけども僕とナスを引き合わせてくれたじいちゃんには感謝の気持ちしかない。色々考えた結果会社名、いわゆる屋号を「マルホ農園」とすることに決めました。マルホというのはじいちゃんが持っている道具に○中に「ホ」って焼印が入っていたから。屋号とともにじいちゃんの気持ちも忘れずにいよう思ってこの屋号にしました。

じいちゃんとの別れ

そんなじいちゃんは2015年10月25日に他界しました。満89歳。何回か体調を崩して死にかけ(失礼な)た時もあったけど、これが本当に最期のお別れとなりました。最期も30秒くらい息が止まっては息をする、というのを繰り返して。ゆっくり最期を楽しんでいるように。

最期のお別れの時、僕は棺に自分の決意と共にそっと2本のナスを入れました。

世の中に数ある仕事の中で僕は農業に出会いました。というよりじいちゃんが触れ合わせてくれました。ご先祖様がこの場所に土地を残し、じいちゃんが井戸を掘ってくれた(掘る際はじいちゃん以外の家族は大反対やったらしいです)のも僕に農業をさせてくれるためなんだ、と感じています。

堀田清治という人生の上に堀田健一、ナスケンの人生があります。じいちゃんが僕の心に想いを宿してくれたように僕もまた家族の、周りの方たちに想いを宿していきたいです。

じいちゃん、見てくれていますか?僕や家族は元気にやってます。お金ないけど(笑)。あなたにはたくさんお世話になりました。ほとんど聞いた話は忘れたけど(忘れんなよ)、今こうして文章にすると目の前に居てくれているかのような気分になります。ナスと出会わせてくれてありがとう。これから見守っていてください。ありがとう、ほんとうにありがとう。

最後に…

こんな話をしておいて宣伝するなんてクソ野郎!言われそうなんですが…

ブログを書くために必要なキーボードの購入資金の支援をお願いしています。もしよかったらのぞいてみてください。なんか期限が今日の23:59までらしくて…

今日も最後までお読み頂きありがとうございます。心から感謝しています。

それではまた次の機会にお会いしナス〜。

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