自主退学、そして会社員時代

紙切れ1枚の重み

みなさんこんにちナス、こんばんナス。

三重県四日市市上海老町のナス農家、ナスケン(@maruhonasu)です。

初めてのブログでマルホナスとの出会いまで書くつもりが、途中で終わってしまいました。もし初回のブログを読まれていない方はこちら「ナスケンの自己紹介」のブログを覗いてみてくださいね。

前々回のブログの続きからですが…

たった1枚、されど1枚。名前を書いてハンコを押してハイ、終了。退学です、自主退学です。僕の学年は3年間で退学者は1名、つまり僕だけって事ですね。野球に続き、高校も辞めて何もする事がなくなっちゃいました。

人として廃れてた

この頃から家からも、部屋からも食事、お風呂、トイレのときぐらいしか出ない生活でした。何に対しても気力が湧かない。単車も特攻服も全て警察に没収。人として生きているのか分からない、自分は何のために生まれてきて何のためにここにいるのか、ずっと自問自答の日々。こんな状態からやり始めたことは携帯ゲームの「桃鉄」。確かどこからかの情報でこのゲームをやり過ぎると友達を無くします、と。いや、もともと友達おらんし、案外やってて相手を裏切ったり騙したり、それが最高に楽しかったのを覚えています。←最悪やな、俺。こうして過去を振り返りながらiPadの文字画面を強く叩いている自分がいます。

この頃からいわゆる引きこもりの生活です。誰とも会わない。家族とも接触も出来る限り避けていました。避けてたというより会ったら何か言われそうでそれが嫌で怖くて逃げていたのかもしれない。当時の写真がないのでせめてイメージだけでも伝えたくて似顔絵を書きました。眉毛はほぼ無く目の細さと相まってどこかのお人形さんみたいにな感じです。↓↓↓↓↓

こんな生活が半年ほど続きました。

同級生たちのあっけない幕切れ、からの

季節は夏。野球をしていた僕にとっては勝手に血が騒ぐ季節です。

高校入学した同期は最終学年になり甲子園をかけた最後の夏の甲子園に挑む県の予選がスタートしました。途中で辞めはしましたがやはりここだけは気になっていたので観ました。噂では前評判もそこそこあり、監督の試合前のインタビューでも「歴代で1番練習してきたチーム」と言っていた事もあり僕としてしては「甲子園」を勝手に身近に感じていました。1回戦、堅い試合運びで勝利。そして2回戦。大差で勝ち一気に弾みをつけたい相手。なはずが最後まで手こずりまさかの1-×2で敗退。テレビ越しに泣きじゃくる…選手もいたが、大半は呆然と立ち尽くす同級生ばかり。僕も「負ける相手じゃない」との思いからしばし呆然と。。。高校入学からこの日に向かって苦しい練習に励んできてたった数日で結果が出る。その一瞬に向かって同級生や他の高校の選手も努力している。それに比べて己はどうなんだ。やる事全てを途中で投げ出し、閉鎖的な空間でぬくぬくしている。

次の瞬間から自問自答の連続でした。

「こんなんでいいのか」「今の自分満足なのか」「まだやれるだろ?」と。今までは自分の人生というレールを歩んでいたけど、何か壁があると親がその壁を壊して退けてくれていた。そもそも親という壁に守られていた。そんなぬくぬくした人生で初めて味わった挫折。自分でもどう乗り越えたらいいのか分からない。「誰か力を貸してくれよ」「なんで誰も振り向いてくれないんだ」今思えばそんな自分本位の身勝手思考でした。そんな中みた同級生の姿。積み上げてきたものが一瞬で崩れてしまう。それに比べて自分は何をしてるんだ!心の中でふつふつと湧いてくるエネルギーを感じたのはこの頃からだと記憶しています。

もう一度高校生になりたい

少しずつ外の空気を吸うようになり、仕事をしようと思いハローワークへ。当時の僕の最終学歴は「中卒」。いくつか該当する項目を選んでヒットする案内を見ていくんですが、全くない。全く。求人があった土木作業や鳶職などの仕事は資格が必要。中卒、無資格の僕としては社会からお前は必要ない!というメッセージを感じました。そんなこともあって考えは次第に「高卒」という資格(資格じゃないけど)をとりたい、と考えるようになりました。そのためには願書の提出が必要で中学校へ行き書類を書いてもらう必要があったのですぐに連絡し、幸い卒業時の担任の先生がまだ居たので手続きはスムーズにしてもらえました。そして人生2回目の入学試験。筆記試験と面接試験を無事⁈通過して晴れて人生2度目の高校生活の始まりです。この時17歳になる年だったかな。

働きながらの学校生活

みなさん定時制高校ってどんな感じのイメージですか?

細かい時間までは記憶にないんですが17時から授業がスタートして、1、2限授業があり、晩御飯の休憩をはさんで3、4限授業をして終わるのは21時頃。僕の入学したのは四日市工業の定時制建築科。15歳で入学したのは四日市工業高校建築科の全日制。同じ学校なのには理由があって、通常定時制は4年間通わなければなりませんが、僕は昼間通っていた時の単位が1年分認められるとのことで、同じ建築科の定時制なら3年間で卒業できる、と。1年は大きいので本当の意味でも再チャレンジと思い同じ建築科の定時制にしました。

授業は17時からなのでそれまで家でグダグダ…出来るはずもなく、地元の土建屋の親方のサポートもあり7時から15時まで働いて16時に学校へ向かうという日々がスタートしました。

車の免許はもちろん年齢でとれないけど、原付きの免許をとるために津にある運転免許センター(警察の管轄)へ行って手続きしてたら僕だけ別室に呼ばれて物々しい雰囲気の中、警察官がポツリ、

「堀田さん、あなたは過去に犯した行為でまだ免許は取得出来ません」

はい、終了〜。そのまま電車乗って帰りました。

ってことで約半年間免許がとれないことになったので(自業自得)バスで通うことになりました。僕が乗るバスは特別ルートで四日市市内に一校しかない女子校に寄るルートでして、しかも乗ってるのは僕一人。勘違いされてたやろな、完全に。ハーレムを通り越して息苦しかったのを覚えています。笑

【ナスケンウンチク】

ちょっと脱線しますが…いやー下の写真綺麗な花ですよね。「クレオメ」っていうんですよ。ナスの畑の一部に植えていて、ナスに意地悪をする虫(害虫)を食べてくれる虫(益虫っていうのかな)がこの花に来やすいみたいで栽培してみました。ナスより生育が良かったのはここだけの話にしておいてくださいね。↓↓

いざ始まると…

仕事と学校の両立。この生活が思ってた以上に大変でした。世の中もっと大変な思いをして生活している方もいるのに。「段取り八分や」という親方だったので朝が早い。4時過ぎには動き出している方で早く動き出す分15時過ぎに終わって一杯やってましたけど。そんな親方の理解もあり毎日大変だけど、あっという間の1日で、なにかと考え込んでしまう僕にとっては考える時間すらなくバタンキューだったので余計に時間の流れは早く感じました。

定時制といっても入学してくる人は様々でした。社会人だけど建築に興味があって学びたい人、もともと不登校気味で社会との接点をあまり持ちたくないのかなって人、親の経済的な事情で働きながらの人などなど。建築科に入学したのは10名ほどでしたがそんな人たちとクラスメイトとなりました。

四日市工業の定時制は当時他にも機械科、自動車科とあり、全体で一学年30〜40名ほど。入学して1ヶ月もたたないうちに辞めていく人も。ちなみに授業後のクラブ活動もあって軟式野球部があったのでもちろん加入しました。試合前のメンバー集めには苦労したけど、この頃は純粋に野球が好きで楽しかったな。楽しむことってこういうことか、ってのを感じたのはこの頃。その後の草野球人生の原点がここにあるようにおもいます。

学校、仕事をこなしていく中で卒業後の進路を考えた時に少しでも有利に、自分の武器になるようにと思い資格取得に挑戦し始めたのもこの頃。確か「フォークリフト」「ガス溶接」「危険物乙種4類」だけだけど取得出来ました。今全く役に立ってない資格だけどw

少しずつ自分の人生を描き始めれたのもこの頃だと思います。昔から「モノづくり」がしたい、と思っていてモノづくりって聞くと「カタチに残るもの」という思いだったのでそんな職業につけたらいいなって。

ちなみに定時制時代に友達から今の奥さんを紹介してもらいました。もう10年以上前の話。

いよいよ卒業、20歳の挑戦!

17歳の年で入学して、3年間優等生(ここ大事)で無事卒業。就職先はゴム製品の金型を作る会社です。この会社は自動車関係の仕事をしている会社でもちろん飲酒運転なんて言語道断なのに社長がゴルフ行って(結構な頻度、週3くらい)平気で酒飲んで車運転して会社へ帰ってきてあーでもない、こーでもないって言って現場引っ掻き回して帰る。こんな日々に飽き飽きして結局2年ほどお世話になりましたが、転職。転職先はみなさんも聞いたことあるかも?「co-op宅配」生協ですね。詳しく言うと生協の個人宅配を委託されてる会社に就職しました。この時22歳。

会社員時代の気付き

会社員時代からは想像も出来ないこの写真。

会社員が悪いわけじゃないけど、「個を出す」のではなく、完全に「いかに元請けに気に入られるか」に思考がいっていました。委託なんで結局数字。言い方悪いですけど数字を残せば何でもオッケー。過程なんてこれっぽっちも評価してくれない。会社がそうというより元の生協が「委託先ならいくらでもある」そんな態度でした。あ、もしこのブログを読んでくださる方で生協関係者の方みえましたら先に謝ります。すみません。でも嘘は書かないので当時感じたことを書いていきますね。

そんな職場なので、まー人の入れ替わりが激しい。1日体験入社みたいな感じで来る人も最初の積み込み作業とか職場の雰囲気感じて1時間経たずに帰った人もいるくらい。そんな(どんな?)職場でも今でも感謝していることがあります。

「…でも」 で逃げるな!

この会社には4年間お世話になりましたが、最後の1年間は1つ立場があがり「主任」という立場でした。いわゆる中間管理職にあたるんでしょうか?その時の所長にある商品の販促活動を任され取り組んでいたものの数字も良くなく、個別で呼び出された時のこと。

僕は相変わらずよく見られようとして「やってます」アピールをし始めました。もうこの性格最悪ですよね。ますます悪化の一途を辿ってます。書きながら笑えてきます…しばしお付き合いを。

「こうやって取り組んでいるんです。でも…」

と会話を続けようとした僕の言葉の続きを所長がかき消し、

「堀田主任、『でも』という言葉は先の発した言葉を否定する接続語です。逃げてはいけません」と。

ハッとしました。たいてい「でも」という言葉は自分が思ってたようにならない時に出てくる言葉だと思います。みなさんはどうですか?僕はそうでした。「これだけ頑張った。でも結果がついてこない」無意識のうちに「でも」という言葉をめちゃくちゃ使っている自分がいました。口癖になっていたんだなって。所長にそのことを指摘頂いて意識するようになったら言葉につまるつまる。やっぱりそれだけ使っていたんだな。と。諦めも肝心だと思います。でも(あえて使ってみるw)最後の最後まで取り組んで行動してそれでもダメなら「でも」って言葉、出てこないと思います。この時の所長は「クラッシャー」という名を持ち、入ってくる人、関わる人全てを壊すという風に聞いていたんですが僕はこの一件でめちゃくちゃありがたい気付きを頂けたと思い4年間の中で1番感謝した時間でした。結果辞めちゃうけど。

土を触るとホッとする

もともと祖父が3ヶ所ある畑で野菜作りをしていたんですが、少し離れた畑は年齢を重ねるごとに足が遠のいていくようになっていました。それなら僕が作ってやるよ!という今思えば偉そうなノリで祖父に聞いてみたら「ほな、やってみ!」と。小柄だけど豪快に酒を飲み、いつもニコニコしていた祖父。僕たち兄弟(僕、2歳下妹、6歳下弟)が興味を持った事は「おう!やってみ!やってみるやわさ」と常に肯定してくれていました。4年前に他界しましたが、戦争時代を生き抜き、農作業もコツコツ根気よくしてきた祖父。挑戦する人にはトコトン応援、協力していました。ただ途中で投げ出したりすると理由を聞き、場合によっては烈火のごとく激怒し、小屋の柱にくくりつけられたことも何度かあります。

そんなこんなで始めたはいいものの平日は会社員。週末に畑に来るものの蒔いた種は半分も芽が出ず枯れていき、植えた苗もすぐに虫に食べられる始末。種を蒔いたら収穫出来る、苗を植えたら収穫出来る、簡単に考えていたつもりないんだけどナメてたんでしょうね。結果が伴わないから(当たり前や)次第に畑から遠のく訳で…

おいおいここでも途中で投げ出すのかよ?

またですね、かなりの長文になってしまいました。書いてる自分が疲れてきたのと今ビニールハウス内でこのブログを書いてるんですが結露が酷くて画面にボタボタ水滴が落ちてきます。このまま書けば大切なiPadが壊れちゃうので今回はこのあたりで終わりたいと思います。

長い文章、ましてや超絶つまらない僕の半生を共に振り返ってくれたアナタ!本当にありがとうございます。そんなあなたにの胃袋を応援するために今日も僕はナスたちと戯れてきます。次回、この続きのブログも楽しみにしてもらえれると嬉しいです。本当に最後までありがとうございます。

最後に…

もし良かったらこんな取り組みもしていますので覗いてみてください。よろしくお願いします。それではまた。

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