【三重県 四日市市】野菜農家が伝えたい、野球を通して学んだこと

みなさんこんにちはこんばんは!

三重県の上の方、海にはコンビナート群、山の麓には茶畑がたくさんある稲葉三右衛門さんが開港した四日市港のある街。その名も「四日市」。その四日市市上海老町の野菜農家、ナスケンです。

2018年の夏の甲子園、100回目の記念大会ということもあって非常に盛り上がっていますよね。今日でベスト4が決まりました。

絶対王者の大阪桐蔭、故上甲さんの教えが色濃く残る非常にまとまりのある済美。強打に加えて投手力も充実の日大三高、そして!秋田県の県立高校でしかも農業高校の金足農業。

絶対王者の大阪桐蔭に三校が挑む、そんな感じでしょうか。

高校時代の青春の時期を野球に捧げてひたむきに頑張る高校生を見るこの時期は特になんですが、自分の高校時代を思い出します。

今回は僕の野球人生とともにあった学生時代(小学校から高校時代まで)を振り返り、そこから学んだことをブログにしようと思います。

遅咲き?!の小学生時代

四日市の上海老町にて田舎の長男坊として生まれた僕は、何不自由なく育てられました。

そんな僕が友人に誘われて体験入部という形で地元の「あがた野球少年団」のグランドへ行くことになった小学5年生の冬。

当時でもクラブ活動を始めるのは2、3年生からが一般的で、僕はめちゃくちゃ遅い方でした。

野球は父親と近所の広場でキャッチボールなどをする程度。ルールはテレビで見ていて少し分かる程度でした。

そんな僕が体験入部でチームの中に入ってプレーしてみて「野球ってみんなでするとスゴイ楽しいじゃん」と感じたことは遠い記憶ですが今でも覚えています。

楽しい!!そう感じた体験入部。そのまま入部決定でした。

無敵の小学校6年生時代

そしてそこから僕は楽しみながらも監督やコーチの指導を受けて素振りなどの自主的な練習もやって結構なスピードでメキメキ頭角を現して、6年生の春にはレギュラー番号をもらうようになるまでに。

初めてもらった背番号は「14」。そこから「6」、最後の大会では「2」を付けて捕手のポジションについていました。

6年生の試合では毎試合で安打を重ねてチーム自体も非常にまとまりがあるチームでした。

ある日の試合であまりしなかった「空振り」をしたんですが、ベンチに戻るやいなやコーチから、

「タイミングはバッチリや!ただお前のスイングが早すぎて当たらないだけだから気にするな!」と言われたことも(笑)

創部以来の最高の成績で最後の大会を締めくくり次のステップの中学校へ…

そして中学校へ

中学校は四日市では3本の指に入るヤンキー校の「四日市市立大池中学校」へ(ヤンキー校って知ったのは後の高校生時代)。

中学1年の夏で最上級生の3年生は引退なのですが、新チームの秋以降内野手、という形でレギュラーになり試合にも出るようになっていました。

ただ中学2年生になった時にそれまで指導して頂いていた北村先生という人望もあり、指導力も豊富な先生が異動になってしまいました。

正直言って困りました。非常に。

しかも後任の先生は野球未経験の先生。これはもう仕方の無いことなんですが僕の中でその瞬間ヤル気スイッチが「OFF」になっちゃったんです。

次第に手を抜くように…

今まで自ら取り組んでいた素振り。

何かに理由をつけてしなくなっていたのもこの頃から。どうせ野球知らない先生だから別にいいだろ、そんな考えでした。

最終学年になり最後の大会も市内ベスト4止まり。ちなみに2年生から野球の試合のサインなどは自分たちで出し合っていました。

僕は副キャプテンでしたがキャプテンと協力して出していました。

中学の野球部引退後…

野球に打ち込んでいた時間が引退したことによりぽっかり空きました。

少し悪いこと(タバコ、単車、短ラン、ボンタン、根性焼き、などなど)←今振り返ると可愛いもんです(笑))に興味が湧きだしたのもこの頃。

ただ、なにか自分の中でやり切った感は無くてこのまま終わるよりもどうせやるなら「甲子園」、目指したい!と思って勉強に打ち込み、その当時三重県内では1番甲子園に近い、と言われていた「三重県立四日市工業高等学校」の建築科へ入学する事となりました。

プライドも何もかもズタボロ…弱い自分が憎い

ポジションは捕手として。自分が正捕手となり甲子園へ…

なんて言ってたのは入部1週間くらいでしょうか。自分なんかより肩が強く、足が速く、よく打つ、守る、そんな選手がたーくさん(笑)。

中学までは自分ならそこそこ出来る、という根拠のない自信がありましたが、そんなちっぽけなプライドなんでズタズタのボロボロになりましたよね。

その時に初めて自分のことが嫌になり、憎くなりました。それは多分「もっと練習出来ただろ」という思いから。

尾崎先生が言っていた言葉に救われるも…

必死に練習について行く中で当時の野球部の監督であり先生であった尾崎英也先生(現・いなべ総合高校野球部監督)が監督として「どんな選手が甲子園に行くために必要か」について話をしていました。

「オール3の選手は使えいにくい。どれが1つでいい。5を持った選手が必要だ」と。

走攻守、全てにおいて平均的な選手よりも何かに秀でていればその選手を使いたい。そんな話でした。

僕はその当時全てにおいてレベルアップしないとレギュラーどころかベンチ入りすら出来ない、と考えていたので「自分の特徴、アピール出来るのは何か?」を今一度考えるいい機会になりました。

やはり練習について行けなく…

4月に入部して1人また1人と退部して行く日々でした。

同学年も最初は60〜70人居ましたが最初の夏休みに入る前には20人近く減っていたと思います。

僕はヘロヘロになりながら何とか食らいついていましたがある日、僕の中でトドメを自ら刺すような出来事があったのです。

練習合間の休憩中に疲れ果てて…

ランニングの練習後休憩中に疲れ果てて意識が朦朧としながら校舎内に入り(なぜかはわからない…)、階段の踊り場で倒れるように寝てしまうという…それが多分14時くらい。

ハッと起きたら19時過ぎ。

肉体的にも精神的にもへばっていた僕はそのまま練習に戻る事も出来ずにそのままみんなが帰るまで待ってから帰りました。

辞めるのは、簡単。

結局のところ、このことが自分の中で「もう無理だ」となってしまい、数日後に退部しました。1年生の9月かな。

辞めてからの僕の人生の転落っぷり凄まじく、その転落っぷりを書いたブログ。ぜひ読んでいただけると嬉しいです。→こちらからどうぞ

野球から学んだこと

↑この写真。農業を始めて3年目だったかな。ニンジンを収穫していてこんなニンジンが収穫出来ました。

改めて尾崎先生の言葉を思い出したんです。

「平均的な選手より何か秀でている選手を使いたい」という言葉を。

その当時感じていた事と、今農業を生業として野菜と向き合う中で感じる事は結構違います。というか今だからこそ感じる事があります。

写真のニンジン、もちろん出荷は出来ません。直売所に持って行けたとしてもおそらく売れ残るでしょう。

ですがこの写真を例えば小学生たちに野菜の授業で見せて思い思いの言葉を発してもらうのはどうでしょうか?

何のためにどう使うか

全ての野菜が同じ大きさ、同じ重さ、同じ形・姿とは限りません。いやむしろ全て違います。

僕は「違い」こそ「個性」ということを伝わるようにしていきたい。そんな事を考えるようになりました。

人だもの。得意不得意はあって当たり前。

不得意なものを練習していくこともちろん大切です。ですが得意な事こそもっともっと突き詰めていってほしい。そう考えています。

そのためには「違い」がダメなことじゃなく「あなたの個性である」ことをもっともっと知ってもらう必要があります。

そのために上記の写真、最高な写真だと思いませんか?出荷は出来なかったけど、このニンジンにしか出来ない、つまり「違いは個性」ということを僕に気付かせてくれたんですもん。

そんなことを伝わるように取り組んでいることが「#ナスケン小学校PR作戦」なんです。まだご存知ない方は是非読んで頂きたいブログがあります。→こちらをどうぞ

最後に…

15歳の僕には全く違う言葉に聞こえていた尾崎先生の言葉。

そこから更に16年経った今、改めてこの言葉と向き合って感じた感情を文字にしました。

途中で退部して、そのまま学校も辞め本当にどうしようもない人生だったけど、今はこうして自分の使命と出会い、これから更に活動を広げていきます。

尾崎先生から学んだこと、しっかりこれからの生徒たちに伝えていきます。本当にありがとうございました。

尚、尾崎先生は今年で定年退職とのことですが、そのままいなべ総合で野球部の監督として指導にあたるそうです。

僕なりの形で応援していける方法を考えていきます。

長文、お読みくださりありがとうございました。

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